生石神社の不思議


 生石神社にある「生石神社小美術館(絵馬堂)」には、酒呑童子図、神功皇后図、美人図などがかけられているので、見学するのも楽しいが、このほかに明治初期の算学者、佐藤善一郎貞次と彼の五人の弟子が難問を解いたことを感謝し、奉納したという算額もある。三角関数を用いた五題の問題とその解き方も書かれているので、挑戦するのも楽しいかもしれない。
 また宝殿駅西の踏切を北にわたってすぐのところに立っているのが、参道のない鳥居。
 延宝年間(1673~80)に村の庄屋、神吉久太夫が奉納したものだといわれ、古くから生石神社の「一の鳥居」と呼ばれているとはいえ、昔から神社に通じる道は見当たらない。通常、鳥居とは神社に通じるものだけに、少し変わっている。

 この鳥居にも言い伝えが残っている。あるとき、庄屋、神吉久太夫が姫路藩主榊原式部守にあったときのこと。久太夫は酒によった勢いで無礼な囗をきいてしまい、殿様の怒りをかってしまった。酔いのさめた久太夫は、すぐに氏神の生石神社に参詣し、そのおかげで難を免れたことから、村はずれにお礼の鳥居を建てたといわれている。よほどあわてて建てたのか、参道のことまで考えなかったのかもしれない。

 この鳥居の前には古びた燈籠がある。これは江戸時代の学者であり商人であった、この町出身の山片蟠桃が結婚を記念して贈ったものといわれている。ちなみに彼は晩年の天文、地理、制度、経済におよぶ十二巻もの大著、『夢の代』のなかで、石の宝殿が未完成の石棺だという考えを述べている人だ。
 またかつて生石神社にあった梵鐘はおもしろい運命をたどっている。天正7年(1579)、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が、三木城攻略のおり、神吉城を落とそうとして生石神社を陣所にしたいと申し出た。しかし時の宮司は神吉城主の弟。その申し出を固く断った。そのため、秀吉の怒りに触れて焼き討ちにあってしまった。

 すべてのものが一瞬にして火の中に包まれて燃えつきてしまったが、そのときに奇跡的に焼け残ったのが梵鐘だった。しかしだれかにもち去られ、後日、関ヶ原の戦いのとき、石田三成の勇将、大谷刑部吉隆が陣鐘として使用することになった。
 吉隆はよく戦ったが、戦いに敗れ、徳川家康が戦利品として美濃国赤坂の安楽寺に寄贈し、朝夕この鐘をついては、吉隆および戦没者の霊を慰めていたという。
 現在でも大垣市の指定文化財として保存されている鐘の表面には、生石神社名が刻印されているという。
 このほかにも高砂市には播州善光寺といわれ大仏様が鎮座する時光寺、法然上人二五霊場第三番札所といわれる十輪寺などもある。